品川・旧東海道探訪(3)

【大仏様?】

また、街道に戻った。品川寺の前を通りがかったら、小振りな大仏様のあるのが見えたので、入ってみた。この大仏は、深川の地蔵坊・正元が発願した「江戸六地蔵」という計画の一貫で、「銅造地蔵菩薩坐像」(宝永5(1708)年)というそうだ。江戸六大地蔵?初耳だが、東京大仏も含まれているのかな?と思ったら、ここの他、

東禅寺 台東区東浅草2丁目
大宗寺 新宿区新宿2丁目
真性寺 豊島区巣鴨3丁目
霊巌寺 江東区白河1丁目
永代寺 江東区 (消滅)

だそうだ。 今度、回ってみようかな・・・。

この寺にも、慰霊碑があった。ハシケの会社の作った「溺死者供養之塚」(明治29年)だって。

【海雲寺】

まず、目についたのが、「うすさま明王」を祭ったお堂。「うすさま明王」といえば、伊豆の天城湯ヶ島では、トイレの神様として有名である。寺の人が出てきたので、きいてみたら、やっぱり、トイレの神様だそうだ。

ということは、脇の「→お手洗」の看板は確信犯?

「平蔵地蔵」というお地蔵さんがまつられていたので、説明看板を読んでみたら、悲しい物語が書かれていた。

1860年頃、鈴ケ森の刑場の番人をしていた3人の乞食がいた。そのうちの一人、平蔵はある日、大金の落とし物を拾い、正直に役所に届けた。ところが、「3人でこっそり山分けすれば、いい暮らしができたのに!」と、怒った仲間の2人は平蔵を殺してしまった。財布の持ち主だった仙台屋敷に勤める武士は、平蔵を可哀想に思い、お地蔵さんを作ってあげた・・・という話だ。明治32年に地蔵のある場所を京浜電車の線路が通ることになったため、当時の海雲寺の住職が地蔵を引き取ったそうだ。

全く、救われない話である。合掌。

ここを過ぎると、旧東海道は神社仏閣等の観光ポイントも減り、あとは、ほとんど、街道をてくてく歩くだけのやっつけ仕事になった。

鮫津八幡神社の、ひと昔前の少女漫画のようなタッチの「手水の使い方」看板。

勝島運河。

多分、ここが元の海岸線の場所。

国道と旧街道がぶつかるところに、鈴ケ森の刑場の跡がある。

慰霊碑の他、火炙台、磔台、首洗の井戸が残っていた

火炙台の説明板には、「八百屋お七を初め火炙の処刑者は皆この石上で生きたまま焼き殺された。真中の穴に鉄柱を立て、足下に薪を積み縛りつけて処刑されたのである。 鈴ケ森史跡保存会」と書かれていた。

江戸時代には、こういう行為が見せしめのため、街道沿いで行われていたのだ。恐・・・。

火炙台の脇に、手書きの貼り紙を見つけた。

「告!この地、鈴ケ森刑場跡に最近、団体で訪れ、受刑の緒霊に合掌する事なく無神経な引率者の話をきいた後、立ち去る中高齢者が多く見られる。今日の社会的荒廃は、年甲斐も弁えぬ者の責任大である事を自覚せよ。「日本の心」礼節を知れ。心有らば合掌礼拝して受刑緒霊の冥福を祈れ。 鈴ケ森刑場跡護持 大経寺住職」


私、この貼り紙で怒られている団体さんのこと、笑えません・・・今朝から、あちこちの寺に行っているけど、お賽銭全然あげないで、写真ばかり撮っている・・・ばちが当たりそうだ(汗)

大森海岸駅まで歩き、電車で帰宅した。
5時間歩きどおしだったため、足が痛くなった。(スニーカーじゃなくて、ちゃんとしたウォーキングシューズはいた方がよかったですね。)

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