谷中村跡&田中正造の史跡巡り(2)

【藤岡町歴史民俗資料館】

町役場に併設された無料の小さな博物館である。

館内に展示された、谷中村関連の物件について列挙する。

当局が住民を追い出すために行った強制破壊関連の物件が多かった。

○強制破壊後、一部の住民が谷中村に住み続けるために作った仮宅小屋の写真--ほとんど掘立小屋。悲惨。
○家屋材の写真--谷中村民の家屋を破壊して、没収された家屋材が、藤岡町鎮守鹿島神社境内に積み上げられている。
○谷中村残留民強制破壊家屋分布図
○赤麻仮堤破壊跡の写真--当局は、残留した人々を追い出すため、わざと堤防を壊し、洪水時に遊水池に水が流れ込むようにしてしまった。
○強制破壊に用いた木槌

館外の田中正造像。

田中正造は、谷中村に住みつき、村民のために戦った。

天皇へ直訴した事件は有名だが、谷中村消滅後も、不当廉価買収に関する訴訟、水源調査と治水要道会の設立等、谷中村復活のための活動を続けたそうだ。

彼の使った矢立、書簡、羽織、杖、下駄、火鉢、書簡が展示されていた。

この資料館の展示、私のようにある程度知識のある人間なら、問題はないが、全く予備知識のない人間が見て、状況がわかるのか?もう少し丁寧に説明して欲しいと思った。

●藤岡町歴史民俗資料館
 栃木県下都賀郡藤岡町大字藤岡812、0282-62-4569
 9時〜16時半、土曜日は〜12時、
 月、第三日曜日、祝日、12/28〜1/4等、休、無料

【田中正造の墓(群馬県館林市・雲龍寺)】

ツーリングマップルに雲龍寺に田中正造の墓があると書かれていたので見に行くことにした。

これがお墓。

雲龍寺は、彼が倒れて死去した場所の近くで、彼の密葬が行われた寺だが、お墓が建立されたのは、なぜか、彼の死後20年もたってかららしい。

「救現堂」という田中正造にちなんだお堂や、明治33年の川俣事件(鉱毒事件の被害者が徒党を組んで、直訴しようとし、警官隊に取り押さえられた事件)の被告姓名住所の碑もあった。

そして、この日、藤岡の資料館で入手したパンフを見たら、田中正造の墓はここ一箇所だけではないことがわかった。住民に慕われていた彼の骨は分骨され、藤岡町大字藤岡字堤外の田中霊祠、佐野市小中町の薬師堂、佐野市金井上町の春日岡総宗寺、埼玉県北埼玉郡北川辺町立西小学校、そして雲龍寺の5箇所におさめられているそうだ。

そこで、2日目は、田中正造の他4箇所の墓巡りを行うことにした。

【田中正造の墓(埼玉県北川辺町立西小学校)】

小学校の敷地内といっても広い!お墓を探してうろうろ。職員室に入り、忙しそうな先生に場所をきいたら、教えてくれた。

校庭の一角にあったお墓には屋根がつけられていた。説明看板を読んだら、田中正造の活躍で、北川辺町一帯は、遊水池化を避けられたそうだ。それで、住民に感謝されて、お墓が作られたわけだね。

【決壊碑】

次に新古河駅近くの「決壊碑」を探しに行った。マップでは、駅と遊水池の堤防の間のどこにあるのかはっきりしなかったので、とりあえず、新古河駅までバイクを乗り付けた。駅前にタクシーがいたので、運転手さんに質問したら、「堤防の中腹あたりにあるよ」「そこの道を上がっていくと見える」とのこと。そこで、堤防を県道9号に上がっていく途中にバイクを止め、下を見おろしたら、石碑発見!ガードレールを乗り越え、草地の斜面を降りて、決壊碑にたどりついた。「たどりついた」というのは、けっして大げさではない。今日履いていったオフブーツだと、草の斜面は歩きにくいのだ。案の定、登る途中で足を滑らせ、ふくらはぎの筋を伸ばして痛めてしまった(涙)。

決壊碑に書かれた文字を読んだら、「決壊」とは、昭和22年9月15日の出来事。カスリーン台風。この時は、「渡良瀬川と利根川の合流点付近で決壊し、水が、江戸川(昔の利根川)に沿って流れ下り、葛飾、江戸川区のあたりまで浸水した」という史上まれにみる大被害が出たそうだ。(詳しい資料が、千葉県立関宿城博物館(関宿町、ビデオ資料)や、本所防災館(東京都江東区))にある。)

次に、谷中村合同慰霊碑の近くの決壊碑を探すことにした。

県道と併走する堤防下側の道を歩くこと約300m、石碑発見。こちら(昭和25年に建った)もカスリーン台風がらみの石碑だったが、昭和10年、16年にも出水があったことが書かれていた。

この近くの湿地資料館の地図によると、カスリーン台風時の決壊場所は、遊水池周辺で15箇所。決壊碑は私が見た2個以外に数カ所あるらしい。

【渡良瀬遊水池内はダート天国】

合同慰霊碑のところから遊水池内に入り、2車線のまっすぐな舗装路を走った。赤麻橋を渡ると、そこから先はダート天国。

堤防上は、昨春走った霞ヶ浦のような雰囲気で見晴らしがよい。堤防の下のヨシ原の中は、友人に教わったとおりのニセ釧路湿原(写真参照)。

不法投棄されたゴミが多いのがとても気になった。これらのゴミは景観を損ねるだけでなく、3/17(日)に渡良瀬遊水池全域で行われるヨシ焼きのさい、ゴミが焼けて大量のダイオキシンが発生するので問題になっているそうだ。

ほとんどフラット系のダートを30キロ近く走り回ってしまった。

ダート走行は楽しかったけれど、ここを走る時は、「私たちの幸福は、他人の不幸の上に成り立っているのだ」ということを忘れてはならないのです・・・。

【田中霊祠(栃木県藤岡町)】

県道9号と11号の交差点脇のガススタで給油ついでに、この近くにあるという田中正造の墓「田中霊祠」の場所をきいた。「東武線の踏切を渡って、6軒家が固まっている所の先の道を右折」というので、踏切を渡り、数百メートル走ると、右側に見落としそうな小さな表示を発見した。

畑の中の木立に囲まれた神社はひとけもなく静かだった。この霊祠、大正2年に元は違う場所に作られたが、渡良瀬川改修のため、今の場所に大正6年に移されたらしい。

【薬師堂&生家(栃木県佐野市小中町)】

薬師堂は、田中正造生家の前にあるお墓だ。

田中家の菩提寺は、生家の裏手にあるが、彼はそちらには埋葬されなかったらしい。

薬師堂の敷地内に「県道拡幅絶対反対 田中正造邸宅をもとの位置にもどせ 国民的文化財を道路の犠牲にするな」という看板が建っていた。いったいここで何が? 道を挟んで反対側の田中正造旧宅(生家)の受付できいてみたら、県道拡幅にともない、平成2〜5年にかけて、敷地内の建物を全て4m後ろ側に移動したらしい。その程度のことで、どうして反対運動が起きたのだろう?観光客にはよくわからない事情があるようだ・・・。

田中旧宅には、隠居所、母屋、土蔵の三棟があり、内部に田中正造の肖像や遺品、複製の直訴状等が展示されていた。彼の家は雑貨屋と農業をやっていたそうだ。村の名主になったらしいが、母屋が平屋で3室&土間しかない。名主というと、私がどこぞやの「豪農の家」を連想してしまうため、非常に狭く感じた。

正造は生前、政治活動に忙しく、この家にはあまり帰らなかったらしい。彼はこの家に医師を迎え入れ、診療所として使っていたこともあるそうだ。彼の死後、この家は小中村に寄付され、住民が結成した「小中農教倶楽部」がこの家の維持管理にあたってきたそうだ。

●田中正造旧宅
佐野市小中町975、0283-24-5130
公開時間 毎週火、木、土、日、10〜16時。祝祭日は休み、GWは開館、お盆(8/13〜16)と年末(12/26〜1/4)は休み、300円

【佐野市郷土博物館】

薬師堂の看板を見ていたら、佐野市郷土資料館に田中正造の展示があることがわかったので、見に行くことにした。

博物館は無料だが、立派な建物だった。

田中正造専用の展示室が一部屋作ってあった。年表やビデオ資料もあった。私みたいに知識の少ない人間には助かるわ〜。

田中正造の年表を見ると、彼は何度も逮捕、入獄されている。自分の正義を貫き通したんだろうなぁ。地位も財産も最後はどうでもよくなっちゃったんだ。

彼が最期に倒れた時につけていたミノ、笠の他、小石が3個展示されていた。これは何だ?と思ってビデオを見てみたら、倒れた時の所持品が、小石三個の入った信玄袋だけだったそうだ。知らない人が見たら、ホームレスの行き倒れにしか見えなかったろう。壮絶な最後だ。でも、地域の人に慕われ、未だに5箇所、お墓があり、ちゃんと整備されている。各所に看板や資料館もある。「虎は死して皮を残す」って生き方だな。それに比べて私の生き方って・・・(トホホ)

●佐野市郷土博物館
佐野市大橋町2047、0283-22-5111
9〜16時半、月、祝祭日、第三日曜日、毎月末日、年始年末休、無料

【田中正造の墓(春日岡総宗寺(佐野市金井上町))】

春日岡総宗寺ってどこ? 佐野厄除大師でキキコミしたら、厄除大師=総宗寺だった(笑)。

平日だというのに、参拝客が団体で建物の中に入っていく。大きな寺だ。田中正造は、人望があったから、こんな大きな寺でたくさん人を招いて、お葬式をやったんだね。

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