知覧特攻平和会館

【知覧特攻平和会館】

知覧には太平洋戦争末期、陸軍の飛行場が設けられ、沖縄への特攻基地となった。飛行場跡に、特攻平和会館を中核とする公園が作られた。

復元された三角兵舎を見学した。三角兵舎というのは、出撃を待つ特攻隊員が使っていた宿舎。木造の低い小屋だな〜と思ったら、敵の空襲を防ぐため、林の中に隠すように設置されたからこういう形になったそうだ。

特攻平和観音

柵で囲まれ、これ以上近寄ることはできなかった。

「ホタル」の石碑。

特攻にまつわる哀しい物語だ。

この碑は2001年に公開された映画の記念碑だが、元になった話は実話である。

特攻平和観音と、ホタルに関しては、「ホタル館 富屋食堂」を参照のこと。

平和会館は全館撮影禁止なので、以下、文章で説明。

展示されていた飛行機。

○陸軍4式戦闘機 疾風---20年1月、フィリピンに侵攻した米軍が完全修復→米国の私設航空博物館が買い取る→昭和48年里帰り飛行→栃木県宇都宮市→京都・嵐山美術館→知覧特攻平和会館
○陸軍3式戦闘機 飛燕--日本航空協会所有。日本で唯一。
○陸軍1式戦闘機 隼--90/100モデル。
○海軍零式戦闘機--いわゆるゼロ戦。ここのは完全に復元されたものではなく、甑島の手打港沖500mに沈んでいたのを昭和55年6月に引き揚げ、ボロボロの状態のまま展示。操縦席より後ろの部分は無い。型式は52型丙。

ここにしかない貴重な機体もあったので、飛行機に関してのみ撮影禁止を解除して欲しいものだ。

特攻隊員全員の顔写真、経歴と、彼らの遺品が並べられていた。

一番印象に残ったのが「と号空中勤務必携」という昭和20年5月発行の冊子。特攻隊員用のマニュアルだが、「突撃時注意」「突撃方式」「衝突直前」の項目はすさまじい。目をつぶるな、とか書いてあって怖い。

大ホールでは、男性がお客さん相手に特攻について、説明をしていた。

知覧の生き残りが300人だとか、特攻機の乗員は、最後に飛行機に乗り込む時、地面から足が離れる瞬間が地上との永遠の別れになるとか、開聞岳が見えなくなる時日本と本当におさらばだ、と感じたとか、同時多発テロは特攻じゃなくて、国際的な不法行為・テロに過ぎないとか・・・私は途中から聞いたのだが、なかなかの熱弁だった。
話が終わった後、係の方に「特攻隊の生き残りの方ですか?」ときいたら、違うそう。この施設には17年前まで?はそういう方がいた、ということなので、現在は特攻隊の生き残りの職員の方はいらっしゃらないようだ。

突然、隣にいたおばあさんが話しかけてきた。

彼女のご主人(2001年逝去)が特攻隊の生き残りだったそうだ。鹿屋基地に配属され、特攻に出撃したが、エンジン不調で引き返し、そのまま終戦。仲間が特攻で死んだのに自分は死ねなかった、という思いを背負い続けて生きてきたとのこと。同時多発テロで「特攻」という言葉が何度も放送されたのを見て、昔のことを思い出したのか、元気が無くなり、亡くなってしまったそうだ。
ちなみに、彼女は戦時中大村におり、長崎に原爆が落ちるのを目撃したという。すさまじい閃光と爆風で、運動に使う鉄棒が折れてしまったとか。その後、大量の被爆者が船で運ばれてきたが、「女の見るものではない」と言われたので、修羅場は見ていないそう。

今回はお客さんから貴重な話がきけました。感謝感謝。

●知覧特攻平和会館
鹿児島県川辺郡知覧町郡17881、0993-83-2525
9〜17時、基本的には年中無休、500円
公式サイト