旧日本軍首里城司令部壕

沖縄の有名観光地・首里城

元の正殿の建物は1715年のもので、昭和初期に改装工事が行われ、国宝に指定された。沖縄戦で破壊された後、琉球大学がここの置かれた。1979年、大学の移転後、首里城の再現工事が始まり、1992年に正殿など主立った建物が完成し、首里城公園が開園した。2000年には首里城跡(しゅりじょうあと)として他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録された。

現在、正殿内部は立派な歴史博物館になっている。

観光客でごった返す首里城地下に、戦時中、旧日本軍の司令部壕が掘られていた。

沖縄守備隊である陸軍第三二軍は、昭和19年に首里城直下に壕掘りを始めた。軍の築城部隊の他、動員された沖縄師範学校の生徒も壕掘りを行った。壕の中には牛島司令官以下1000人の将兵がいた。昭和20年4月1日に米軍が上陸し、一進一退の戦闘の末、首里に迫った。5月22日、壕内で作戦会議が行われ、司令部壕を捨てて、南部に移動することが決定し、壕は放棄された。「戦争遺跡から学ぶ」(岩波ジュニア新書)によると出入り口が五カ所あったが、現在、開いている壕口は第五抗口一箇所のみとのこと。

司令部があったため、首里城は米軍の猛攻にさらされ、大半の建物が破壊された。

この立派な石垣も、

当時のものは下半分だけ、上側は復元されたものである。

【守礼門近くの遺構】

本に載っている遺構は守礼門の近くにあるそうだが、案内看板は皆無。

売店のおじさんに道を訊き、階段を降りたら遺構発見(場所)。開口部は二カ所あり、うち一カ所には「第三二軍合同無線通信所跡」の杭が立っていた。実はこれは壕の入り口ではなく、壕の近くにあったトーチカの入り口だそうだ。

ちなみに、現地には「無線通信所跡」以外の説明看板は皆無。たまたま通りがかった観光客はこれが何であるか、わからないだろう。

トーチカ入り口は金網で封鎖されており、中には入れない。また、司令部壕の入り口はこの下あたりにあったそうだが、すでに埋められてしまっているらしい。

【城西小学校内の壕入り口】

トーチカの西隣に城西小学校地図)がある。「戦争遺跡から学ぶ」の地図によると、この小学校内敷地内にも壕入り口がある筈だ。

小学校の守礼門側入り口(画像)は閉まっていたので、反対側に回り込み、正門から校内に入り、職員室で聞き込みをすることにした。事情を話したら、教頭先生がご親切にもいろいろ教えて下さった。

壕は県が管理しているそうで、教頭先生も中には入ったことはないそう。壕口は地面に開いており、鉄板で蓋がされているそうだ。ちなみに、この壕口は「一般非公開」なので、頼まれても見せるわけにはいかないとのこと。

首里城脇のビジターセンターでこの付近の地形を確認、「戦争遺跡から学ぶ」の航空写真と照合した後、だいたいの当たりをつけて、「金城町の石畳道」を降り、首里城の丘の南側車道へ。

【ゲートボール場内の壕入り口】

「金城の大アカギ」という立派な木があり、その向かいの山沿いに公園(地図)があった。ここあやしいぞ。ということで、入ったら、高齢者がゲートボール大会の最中だった。「地下壕の入り口を知りませんか?」と話しかけたら、案の定、敷地の隅に壕を埋めた跡があるとのこと。

完全に埋まっているので言われないとわからない。

【沖縄県立芸術大学研究所下の壕】

研究所の敷地内で聞き込みして現場へ。

研究所の東側の道を降りていったら、駐車場の向かいに空き地があり、フェンスで仕切られていた。フェンス向こうの道を降りていった先の崖に壕口があり、時々作業員が調査(?)に入っているとのこと。壕口の位置はだいたいこのあたりだろう。

同じ司令部壕でも海軍司令部壕が整備され、公開されているのに、こちらは「黒歴史」として扱われているような雰囲気だ。こちらを史跡としてアピールするのは、首里城観光にとって、マイナスになるからだろうか?せめて、トーチカ入り口に看板くらい立てて頂きたいものである。