対馬丸記念館と小桜の塔

対馬丸は沖縄→九州への航行中、1944年8月22日に、米軍潜水艦に撃沈された疎開船である。1661名の乗客乗員のうち1418名が犠牲になった。これは氏名の判っている人の数で、正確な犠牲者数はいまだにわからないそうだ。この船は学童集団疎開にも使われていた。学童834名中、775名が亡くなった。他にも撃沈された船はあったが、学童の集団疎開に使われた船で唯一、対馬丸が犠牲になったので、戦争の悲惨さを伝える事件として有名になった。

ちなみに、疎開船は、病院船のように、外から見てわかるようなマークがついているわけではない。那覇港に入港してくる時、この船は上海から兵士を運んでいた。米潜水艦は、この時点ですでに対馬丸を狙っていた。対馬丸は他の疎開船2隻と、護衛艦2隻とともに船団を組んで本土に向かったが、老朽船で足が遅かったため、狙われたそうだ。船客の大半は船底の部屋に詰め込まれており、船が急速に沈んだのが犠牲者が増えた一因だったそうだ。また、護衛艦等、他の船は対馬丸が撃沈された後、一切救助活動をせずに立ち去った。この行為について、早急に逃げ出さないと、さらに犠牲になる船が増える可能性があったので、仕方のない判断だったという見方がある。救助筏に乗ることができた人も、長い人は救助されるまで1週間近くも漂流する羽目になり、その間に多数の犠牲者が出た。

この事件は、戦時中、箝口令が敷かれたので、疎開児童や家族を送り出した人たちの中には、自分の家族に手紙を出したのに返信がないのはどうしてだろう、と不審に思っていた人もいたそうだ。
その後、那覇市街地は10月10日の大空襲で焼き払われ、これ以後、疎開しなかった人たちも沖縄戦の辛酸を舐めることになった。

戦後、対馬丸の悲劇は多くの人に知られるようになり、遺族の会などの活動で、1954年、沖縄戦戦没学童慰霊碑・小桜の塔が建立され、1962年に沈没場所に近い悪石島慰霊碑が建立。国からも一部の遺族に見舞金などが払われた。その後、1997年には、水深800mの海中に沈む対馬丸の船体が発見された。遺族会の意向として、船の引き揚げの希望もあったが、物理的に無理なので、その代わり、2004年に国庫補助で対馬丸記念館が作られた。

館内は撮影禁止。

学童の遺品(別の疎開船で本土に到着していた)、学童たちが収容されていた船底の部屋の寝床(2階建ての棚が作られ、そこに雑魚寝。冷房無しの蒸し風呂)、犠牲者の遺影などが展示されていた。

係員が希望する客に、展示品について説明していた。

ショッキングだったのは、紐のついた四角い板。当時の救命胴衣だ、とのこと。四角い板の中身は、綿。一時的には浮力が発生するが、すぐに水を吸って、役にたたなくなったそうだ。

犠牲者が乗っていた筏の複製品も展示されていた。波による破壊を避けるため?、真ん中に大穴が開いた筏だ。ここにすし詰め状態で人が乗ったため、半分水没した状態で漂流することになり、飢餓や脱水による衰弱、幻覚などで、一夜明けるごとに人数が減っていったそうだ。

受付に戻り、「対馬丸ガイドブック」(1000円)という冊子を買った。(冒頭の文章は主に、この本を参考にして書いた。)この本の売上金は反戦、慰霊活動のための募金?として役立てられるようだ。

●対馬丸記念館
沖縄県那覇市若狭1−25−37、098-941-3515
9:00〜17:00、木曜日、年始年末休、500円
公式サイト

対馬丸記念館の裏手・歩いて数分の旭が丘公園内に小桜の塔があるので、こちらにもお参りしてきた。
悪石島の石が霊石として納められていた。

小桜の塔の隣に戦没新聞人の碑(1961年)があった。

「一九四五年春から初夏にかけて沖縄は戦火に包まれた。砲煙弾雨の下で新聞人たちは二カ月にわたり新聞の発行を続けた。これは新聞史上例のないことである。その任務を果たして戦死した十四人の霊はここに眠っている」と刻まれていた。

★この碑についての詳細が書かれたページ「沖縄タイムスHP」内)